【風に詠う⑳】友人列伝 

外科医 住永佳久(さいたま市・共済病院顧問)

“友情"を感じることはしばしばあるが、“友情"という語句を【話し言葉】で使うのは何かの具合(偶々の雰囲気or 宴席)で饒舌(じょうぜつ)なったときくらいだ。“友情"を礎にした人間関係を表現している“親友"も心の中に潜めている言葉で、「共感や信頼の情を抱き合って互いを肯定し合う人間関係で、自己犠牲ができるほどの友達関係の中に存在する(走れ メロス?)」と定義すると、還暦を過ぎた私が口に出すには面映ゆい。知人はどうだろうか? そこには“冷めた"あるいはちょっと“他人行儀"な印象を覚える。「儀礼的な会話が続く人または途切れがちな人・沈黙が苦痛に感じる人」かも知れない。単なる知り合いに少しばかりの重みを課した程度か? 友達は互いの価値を認め合い、相手のために出来ることをしようとする。つまり「互いの好感、信頼、価値評価に基づいて成り立っているもの」である。が、言葉そのものが子供っぽいか? 友人とは「会話が弾む・くだらない話でも笑いあえる・沈黙が苦痛ではない、しかしそこにはお互いに一定水準以上の信頼がある」とも定義できるかなぁ。

さて、友人。中学時代の同級生との交わりは残念至極ではあるが途絶えてしまっている。生まれ故郷を永く、そして遠く離れてしまっている報いだ。高校までは四国徳島で過ごしたが、大学時代は関東(といっても栃木県だったが)に6年間いた。社会人になって郷里で10年生活したが、その後、故あって関東(埼玉県)に移り住んだこともあり、高校の同級生で今でも付き合うことのあるは東京在住の3人になってしまった。大学時代の友人は先輩・後輩も含めて、その距離感にもいろいろあるが多いほうだと思う。社会人になってからの友人には仕事の上で出会い、“知り合い"から“友人"というに相応しくなった仲間も多い。また仕事とは関係なく、例えば旅で出会った一回り以上年配(77歳)の矍鑠(かくしゃく)たる“爺さん"もその後のメールのやり取りを経て、今では“友人"といえる関係だ。

<友人列伝 S>
新設の大学に入学したのは昭和48年だった。北関東の畜産試験場跡地に造設された広大なキャンパスに、大学教養課程の校舎とその付属施設(体育館、グランド、プール、テニスコート)、そして基本的に学生全員が住居を義務付けられていた学生寮があった。附属病院は建設が始まったばかりで、夏休みに“セメント袋"を肩に担いで工事現場に運ぶアルバイトに精を出し、稼いだ金子で京都へ旅行に出たことを思い出す。

学生寮には1学年100人×6学年分の個室があり、8人毎に1グループで、“小ラウンジ"と称する10畳ほどのフロアを8つの部屋が囲んでいた。入学したときは当然アイウエオ順の組み分けで、8人のS(スズキ×2 & etc )が居た。その中に今でも結構付き合っている(もっとも卒業以来会ったのは10回に満たないが、手紙[昔昔]や[最近では]メールではちょくちょくやり取りしている)男がいる。仮の名をS君としておこう。偉丈夫で、入学後すぐに空手部に入っていた。四角い顔で一見強面だが、実に穏やかで笑顔のやさしい男だ。

入学後しばらくしてからだったと思うが、構内で交通事故の災難に遭った。まだ附属病院は完成していなく、また幸いにも重症ではなかったために、学生寮自室で脳外科佐藤文明教授の往診付きの安静・経過観察となった。ずいぶん心配したものだが、無事退院(自室外行動許可)し、以後それまで以上(!)に元気に復活したと覚えている。それほどがっちりと体を鍛えている男だった。入学3年後ラグビー部の創設にかかわっていたとき、彼をラグビー部に誘ったことがあった。が、「相手に怪我をさせてはいけないと思うので、自分はラグビー部には入らない」と宣言されてしまった。

卒業後、しばらくは賀状のやり取りで互いの健闘を確認し、勉強会で会う程度の付き合いだったが、卒後19年にして彼の職場を訪ねる機会を得た。母校学生の" 早期体験実習"を指導することになり、その後輩を連れて山形県西川町立病院へ押しかけて色々と世話になった。春だったのでタラの木についている“芽"を紹介してもらい(生まれて初めて見た)、“タラの芽の天ぷら"をご馳走になったが、その程よい苦みがビールに合って美味しかったという楽しい思い出がある。

その後も地元医師会主催の講演会講師として招いて頂き、歓待を受け自宅に泊めていただいたこともある。雪の立石寺に遊んで「閑さや 巖にしみ入る 蝉の声」を鑑賞し、「玉こんにゃく」を賞味した。その頃だったか彼が大変な量の本を読んでいることを知った。パトリシア・コーンウェル「検視官」「業火」、グレッグ・アイルズ「24時間」、その他ロビン・クック「トキシンー毒素」、マイケル・クライトン「ジュラシック・パーク」など面白い小説を教えてもらうなど互いの読書暦を披露し合った。読書家は文章も巧みに成す。

3年ほど前に私が関与していた胃を切って後遺症に悩む情報誌を発行しているアルファ・クラブから「心音―忘れえぬ患者」というテーマの連載の執筆者推薦依頼があったので、彼にお願いすると、二つ返事で承知してくれた。出来上がったそのページには、彼の持つ[人に対する優しさ]、[ことを処するに誠実]が如実に表れていた。以来、彼には、私の書くエッセイ(駄文)の第1の批評家になってもらっている。

時に哲学を話題にして語り合うこともあった。「サルトル、懐かしいねえ。キルケゴール、ニーチェ、ハイデッガーなど。大学1年のとき、何かの課題で実存主義についてレポートを提出したことがあった。実存主義とは【自分で自分自身を作り出していくこと】と、よくわかりもしないのに書いて出したら、担当教官に随分と評価されて照れ臭かったっけ」などと。

「今度また飲もうぜ」とメールで互いに繰り返しているが、山形と埼玉は意外に遠くてまだ実現していない。最近、彼から「奥さん孝行のために関西への旅行を企画している」と連絡があった。徳島にも立ち寄る計画だというので、鳴門の“大塚美術館"と徳島市内での食事処「宍喰(ししくい)」を紹介した。その返事に「11月9日、大塚美術館の後、宍喰に行ってきました。山形では決して味わえない新鮮な魚介類の食感と味覚、すごくよかったです。ありがとうございました。特に、うちわエビってんですか、初めて見ましたが、刺身と天ぷらと鉄板焼きとでいただいてきました。地酒もうまかったなぁ。「瓢太閤」(ひさごたいこう)、気に入って買ってきました。」とあった。こちらもうれしくなった。