【風に詠う】 一生涯勤務医の背景/信念と自戒の言葉 その2 (最終回)

外科医 住永佳久(さいたま市・共済病院顧問)

自治医科大学を卒後、10年が過ぎていた。始めは総合医学講座Ⅱ:外科(外科系総合医養成コース)の助手という身分であった。初代教授は上部消化管を専門としていた宮田先生で学生時代からお世話になっていた。その後、周辺地域住民から高度専門医療の要望が高まりそれに応えるために、さいたま医療センター運営方針も徐々に変遷し、専門診療科が確立されるようになった。私の担当領域は、始めは徳島大学で学位取得に至った乳腺疾患を主としていたが、総合医学講座Ⅱ:外科の医局員は少なく、次第と症例数の多い上部・下部消化管を始めとして広範囲の疾患も担当するようになり、消化器一般外科系総合医と称していた。また医局長として卒後レジデントとしてさいたま医療センターでの研修を希望して来た若手医師を相手に、「内科知識の豊富な外科医こそ、 総合臨床医のホープだ」との持論で総合医学講座Ⅱ:外科医局に強く勧誘していたのだが、ある総合医学講座Ⅰ:内科の教授には「強引過ぎる」とのお小言をいただいてしまった。

あの頃、胆石症に対する治療法としての胆嚢(たんのう)摘出術に革新的な手技が欧米より伝えられた。腹腔鏡を駆使しての開腹しない手術として話題となり、外科医の多くは驚愕とともに違和感も覚えたと思う。日本で初めてこの手術手技を実践したのは誰か、などが話題になったが、わが母校の消化器内科医局は「腹腔鏡的胆嚢摘出術;通称ラパタン」として、大々的にこの手技の伝道師たらんとしていた。山形大学や鹿児島大学でも内科医局が先陣を切って発展に尽くしていた。さいたま医療センターでも消化器内科医が手術を行い、外科医はトラブルがあったときに、即座に開腹手術に移行出来るようにと手術室外に待機を求められていたことが懐かしい。

その後、当然のこととして全国の外科医達による巻き返しがあり、手技の対象疾患も広がり、現在の「内視鏡外科手術手技認定医達による鏡視下手術の隆盛」に至っている。技術革新のスタート時点から、これに携われたことは幸運だった。総胆管切開切石術・脾臓摘出術・副腎摘出術・十二指腸潰瘍穿孔(せんこう)閉鎖術・胃部分切除・胃内粘膜切除術・肝部分切除術・肝嚢胞天蓋(かんのうほうてんがい)開窓術などの手術術式の工夫に参画し、先陣を切って邁進出来たことにはさまざまな思い出とともに大いに満足している。

初期の頃に総合医学講座Ⅱ:外科医局に参集してきた若手医師(自治医大卒業生は半分程度だった)には肝・胆・膵領域外科の研鑽を積んできた者は皆無であった。手術症例のあるときには、いつも栃木の本院に専門医(前自治医科大学附属病院長の安田先生)の派遣をお願いし、その指導を仰いでいた。全国的にも肝臓切除術が一般的になりつつあった頃だった。大宮に越してきて既に5年が経過していたが、家族への約束も忘れたふりをして、消化器外科特に肝胆膵領域』を選択専攻し、その高難度手術手技の獲得に研鑽を積む機会を得た。

経験不足は他病院の先達から学び取ろうとして、<HBPS;埼玉若手肝胆膵外科医の会>と称した勉強会を立ち上げた。幸いにも好評で年2回20年に亘って主宰し、継続開催することが出来て、現JCHO埼玉メディカルセンターの細田先生・唐橋先生、さいたま市立病院の山藤先生・竹島先生、埼玉癌センターの坂本先生・網倉先生、さいたま日赤の木村先生・中川先生・吉留先生、防衛医大の初瀬先生・山本先生・青笹先生、独協医大越谷病院の山口先生・名取先生、みずほ台病院の井坂先生、深谷日赤の伊藤先生、帝京大学の佐野先生、都立駒込病院の本田先生等々の同年代の若手外科医と誼(よしみ)を築くことが出来て、人生の貴重な財産となっている。

さて、勤務医として最年長に達し、遂に故郷徳島に帰らないままに過ぎた今、「自分は何をしてきたか」と総括に思いを及ぼすことがある。 なすべき使命には日々の臨床を誠実に積み重ねていくほかに、医局長の5年間を含めて実質8年間医局運営の責務を任されていた。この間に関連医師会の先生方との付き合いを経験し、多くの知己を得て今に至っている。また、この時期には未だヒエラルキーなど確立していない小集団の外科医局の中で、それでも組織論として「やるべきこと&やってはいけないこと」を必然的に体得することになった経験は、その後大いに役立っている。これにはさいたま医療センター事務局長福沢さんの指揮下にまとまっていた事務部門の仕事ぶりを見聞きしていたことが随分と勉強になった。特に人事案件では迷い・悩み、そして怨まれるなど(人生経験としては貴重なものといえるかもしれないが…)、中間管理職としての悲哀をも随分と覚えた。ほかには後輩の指導・教育もあった。自分の持てる力に不足を意識しながらも、会得してきた知識や技術を伝え残したいという人としての本能もあり、「ああしよう(ああしろ)、こうしよう(こうしろ)」と随分と口うるさい親方(というより兄貴分でしかなかったのだが)となっていたことだろう。今から思えば汗顔の至りである。

一方、第2代教授の小西先生の指示で、平成15年頃から10年程の間、外保連(一般社団法人外科系学会社会保険委員会連合;わが国の外科系診療における適正な診療報酬はどのようにあるべきかを学術的に検討することを主な目的として、1967年に外科系の9つの主要学会が集まって作られた団体)の内視鏡外科部門の委員として活動した。一時腹腔鏡下虫垂切除術の保険点数が削られたことがあり、これの是正を求めて厚生労働省に対して手術実績統計や意見書等数々の面倒な書類作成による復活折衝に取り組んだこともあった。

ストレスも多く、自分には向いていない作業だなぁと痛感した。また、5年ほど前のことだったと思うが外科手術点数全般のアップが成立したとき、外保連委員長であった埼玉県立小児医療センター院長の岩中先生から、これを外科医の環境整備(手術件数当たりのインセンティブなど)に反映させてほしい、との要請があった。このときには北区赤羽の東京北医療センターに転籍していたのだが、病院長として外科医だけの待遇改善を画策するにはいまひとつ躊躇(ちゅうちょ)するところがあり、結局は単に病院の収益アップにしか繋げられなかった。一方、外科医代表の一人としては申し訳なかったとの思いも残っている。

最近、「医師こそ働き方改革を」といった議論が盛んになっている。特に、まだ減少傾向が続いている外科医にとっては大きな問題であり、「医師の質の向上を最重要視して構築」されるという2018年度からスタートする【新しい専門医制度】とともに関心度は一層上がっている。医師の労働環境を考えるときに、使命感か、労働者としての保護か、ということが議論テーマになってしまう。故武見太郎医師会長は「医師は労働者ではない」といい切っていたというが、現状ではどちらを主とするのかなどの結論は付けられない難しい問題だ。

40年前に受けた大学教育では、「医師の仕事は使命感に基づき、一般の労働者とは異なる奉仕の精神云々」と聞かされた世代の一人である。結婚式の仲人をお願いした徳島大学第2外科の井上教授からは、「ここで新婦に一言伝えておきたい。新郎はこれから外科医として研鑽を積み成長しなければならない。病院に長く居残ればそれだけ緊急手術などの術者の権利を得て経験を積み、早く一人前の外科医になることができる。夜、早くは家に帰らないことを覚悟しておきなさい」という訓示があったのが懐かしい。

一方、20年前には指導をいただいていた自治医大前病院長の安田先生から「留学先のデンマークには、外科医は週40時間以上働いてはいけないという法律があった」と教えていただいた。当時はびっくりするような情報だった。「緊張を伴い、長時間の集中力を必要とする手術は疲労度が高く、これを安全にこなしていくために十分な休息は必須だ」との考えだ。10年前には「レジデント教育には使命感という言葉を使用すべからず」とのお達しもあった。今後も臨床医の労働環境整備の議論が続けられるであろうが、医師という職種キャリアアップの為の自己研鑽の時間をどう捉えるかなど専門医制度も関わってくるだろうし、医師の受給問題や医師法の応招義務、医師という資格の業務独占等々越えなければならないハードルは高そうだ。

結局のところ、これらの問題に関してはほとんど役に立たなかった時代遅れの自分であり、内心、忸怩(じくじ)たる思いを抱いている今日この頃だ。