ひどい冷えとしびれに悩む
山の絵を描くことは体力もつき、生きる原動力に
遺書を残し、貯金通帳を託す
東北大震災の前日に胃がんで全摘の手術を受けました。翌日、大揺れの地震の中、ベッドサイドで私のそばにいた妻は、半年後に69歳で亡くなり、私は一人暮らしとなりました。妻は十数年前から甲状腺のがんを患っていました。穏やかながんで再発しても手術をすれば良いといわれていました。それが何度か再発した結果、治療不能の悪性がんになっていました。
私の退院後、妻は入退院を繰り返し、次第に悪化する病状を私にはどうすることもできず、亡くなりました。葬儀も終わり、ほっとしてみたら自分の体もボロボロになっていました。
2011年3月10日に都内の大学病院で胃を全摘。術後の抗がん剤ティーエスワンは効きすぎて、飲むたびに、2週間でドクターストップを繰り返しました。下痢で十数㎏やせ、下半身の冷えとしびれがひどく、温水プールにも体が冷えて入れなくなりました。朝の散歩も寒くて行けなくなり、体も動かなくなり、歩くのもやっとでした。
また、手術した大学病院で「腹水があり、腹膜播種(ふくまくはしゅ)の疑いがある」といわれました。腹水を調べることになりましたが、消化器外科の医師から「腫瘍マーカーも発症値なので、再発せずにいるのは無理。確認できたら消化器内科に回す」といわれました。
私はあきらめて遺書を書き、息子の嫁に預金通帳を預け、あとを頼みました。この頃、ネットで見つけたリンパ・マッサージに行くと、その度に大量の尿が出て、半月で6㎏も体重が減りました。ひどい浮腫があったのでした。
腹水採取のため入院しましたが、「腹水の溜り方が十分でなく、失敗する可能性がある」と検査はできずに退院しました。腹膜播種は?でした。
冷えとしびれは変わらず、エアコン暖房はもちろん、床暖房の上で衣類を着れるだけ着ても寒く、下半身にホカロンを十数枚貼りっぱなしでした。病院へ行くとき、足を引きずり一歩一歩やっと歩いている私の姿にギクッとしている人を何人も見ました。医師からは、病院まで来られるのか?といわれる状態でした。
ひどい冷えとしびれと闘う日々
マッサージで、何とか体力を回復しようとしましたが、千歩歩くだけでも、冷えとしびれはひどくなりました。体力も回復できず苦しい毎日でした。ほかに全身の凝りなどで体がつらくてたまらず、マッサージや鍼灸(しんきゅう)、整体、プラセンタ(胎盤エキス)の注射などに、毎日通いました。効果はその場限りで、治癒することはなく、多くのお金も使ってしまいました。
近くの整形外科で「千歩歩いただけでひどくなるのはおかしい」といわれ、血液検査をするとヘモグロビン濃度は9・2で(基準値 男子13・7〜16・8)、アルブミンも不足していて、貧血と栄養失調になっていることが判明しました。
下痢を治すため食事を見直し、野菜を主に、玄米と魚、果物に変えました。リンゴやニンジンのジュースも欠かしませんでした。これにより次第に下痢は少なくなりました。
原因は脊柱管狭窄症
ひどい冷えやしびれに大学病院でCTやMRI検査を受けた結果、脊柱管狭窄症(せきちゅうかんきょうさくしょう)という診断でしたが、仕方ないという感じで治療はしてもらえませんでした。
会食のときは友人たちに理解してもらい、ゆっくりと少食です。コンサートホールや映画館では、なるべくトイレに近い席を選び、安心第一で楽しんでいます。
リハビリのできる整形外科を探し、理学療法士の指導を受け、優れた整体院で治療を受けました。激やせで弱った筋肉が体を支えられず、腰の内部で硬縮し、下半身の神経や動脈を圧迫して足の血流も極端に減り、坐骨神経痛のひどい状態になっていたことが治療を通じてわかりました。治療で次第に軽くなりました。
私は若いときから山歩きが好きで、仕事のストレスを山で発散していました。絵を描くことは当初、好きではありませんでしたが、衣料品メーカーで婦人物の商品開発をしなければならなくなり、仕方なく絵を描くことを覚えました。その後は仕事に追われて絵は描けませんでしたが、山の絵を描くことを目標としました。
退職後はテントや油絵の道具などの重い荷を担いで冬でも山に登りました。しかし、一人で絵を描くだけでは孤独なので仲間を求め、山の会に入会しました。158㎝、55㎏と非力な体でテントを担ぎ、若い仲間に遅れずについて歩くことは容易ではありませんでしたが、頻繁な山歩きとプールで泳ぐことで体力を確保していました。
また、体の故障を防ぐためにストレッチを行い、それでも治らなければ整体の治療も受けました。これらで、ある程度体の不具合は治せるという認識がありました。
絵を描く喜び。仲間に感謝
術後6年たちましたが、今でも食事のたびに腸はショック状態となり、動くのが容易ではありません。また、ひざ下の麻痺(まひ)やしびれは取れませんが、今ではプールにも入れるようになり、御岳渓谷に毎週、絵を描きに行けるようになりました。
これまで回復できたのは、手術をして退院したときに幸運にも示現展で会友推挙を受けたこと。かつて毎年落選していたので、大きな喜びとともに、もっと絵を描きたいと強く思い、生きる上での原動力になりました。芸は身を助けるといいますが、つまらない絵しか描けないどこにでもいる私のようなアマチュアにもかかわらず、このことを痛感しました。
また、多くの人に支えられました。見舞いに来るたびに汚れたところを黙って掃除をしてくれた息子の嫁。「元気で長生きしてね。何かあったらひとみにいってね」と小学生の孫娘の手紙。大学病院で腹膜播種の宣告を受けたときに「腫瘍マーカーだけでそんなことがいえるのか」と怒った中医クリニックの先生。自宅に励ましの電話をくれた美術会の事務局長、美術展に見に来て励ましてくれた中学の同級生たちなど、多くの人に支援してもらいながら、やっと今日まで来られたという感じです。
(東京都調布市)