走り抜けた事業人生
田舎の洋品店を群馬県一の洋装店に
胃潰瘍で胃を3分の2切除
私は今年の12月、90歳を迎えます。私が受読したほぼ同年輩の作家や親友の皆も遠くのお国へ旅立ってしまいました。私は毎夜、就寝前に「由紀さおり姉妹の童謡愛唱歌集」を手に、大きな声で歌うと童心に帰ります。趣味はクラシック音楽を聴くこと、読書、茶道、競馬(現在馬主―所属中山馬主協会)です。
私は昭和38年5月13日、当時の国立高崎病院で、胃の3分の2と十二指腸をビルロートⅡ法で切除しました。37歳のときでした。酒の飲み過ぎで何回も十二指腸潰瘍を繰り返し、そこが瘢痕となり、食物の通りが悪くなって、胃拡張を起こしたための手術でした。2日くらいはおなかの中が火事になったような激痛で、夜もろくに眠れませんでしたが、妻がベッドサイドで手を握って看病してくれました。
私は群馬県高崎市生まれ。25歳のとき、結婚と同時に東京に出て、「東洋経済新報社」の四季報編集員の募集に応募し、採用されました。
酒好きの私は会社の帰りによく神田駅近くの酒屋の店頭で立ち飲みをしました。会社近くのバーにも出かけ、そのバーの売れっ娘になぜか好意を持たれ、日曜日などは費用はその娘持ちでした。あるとき、それが妻にばれ、長ほうきを持ち、鬼のような顔をした妻に追い回され、トイレに逃げ込んだ茶番劇もありました。
実家の洋品店を継ぐ
ある日、父より「お前が家を継がないのなら、店を処分しようと思う」という便りが届きました。私の実家は高崎市で50坪の敷地に15坪の小さな洋品店を営んでいました。男の兄弟2人で、弟は旧制の東北帝国大学理学部物理科を出て学者の道を歩んでいました。私が家を継ぐことを父母も希望し、妻も同意したので、実家に帰って店を継ぐことにしました。
長年、父が営んでいた店は子供服から日用品まで扱い、出張販売が7割でした。私は商売のノウハウを実体験しながら、売り上げ増を模索しました。父の同意を取りつけて、販売は店のみにし、仕入れ先の厳選、仕入れ値、販売商品の絞り込み、顧客管理などを見直しました。
昭和33年、その頃まだ珍しかった婦人洋品専門店とし、「洋品のまるじょう」と改名して私が社長を引き継ぎました。幸いに以後、店は順調でした。5年後に父母もやっと安心した頃の私の手術でした。そして、その年の11月、私の最も敬愛していた父が急逝しました。2度の打撃で70㎏あった体重も50㎏台に落ちてしまいましたが、妻が懸命に私を労り、そして、店を切り盛りしてくれました。
二重のショックから立ち直った昭和40年、高崎の店を、周囲の猛反対を押し切って、高級婦人服専門店に改装しました。内装も当時、有名な東京の設計士にお願いし、生涯で私が最も気に入った店舗ができました。
前橋にもファッションビル建設
周囲の心配も杞憂に終わり、開店初日から店は会社帰りのOLで大賑わいとなりました。評判は評判を呼んで売上も順調に伸び、昭和45年には30坪3階建のファッションビルを建設し、店名も「服飾のロビーチサ」と改名した。「チサ」は万葉集に出てくる植物名です。
さらに東京の高島屋の出店を機に、前橋市にも昭和51年の5月に5階建て5百坪のファッションビルを建設しました。商品もスイス、フランスまで出かけて仕入れ、56年の年商は6億3000万円に届き、融資を受けていた地元の信用金庫を驚かせました。業績が順調なのも従業員のおかげと、毎年、従業員と海外旅行に出かけました。
この頃、積年の無理がたたったのか極端な体調不良となり、東京の某私立医大のM教授に診ていただいたところ、胆のうに石がたくさんあるので、なるべく早く手術をするようにとのことでした。心配した義兄が群馬大学の知人にお願いして第一内科の小林教授に今一度診ていただく手配をしてくれました。先生の診察では、胆のう検査の結果は意外にも「きれいですよ」との診断でした。
唖然としている私に「胆のうの検査はときには石のような影ができることもあります」とのこと。縁とは異なもので、以来、先生には30年間お世話になりました。私の今日あるのも小林生のおかげです。その尊敬した先生(私より1歳年上)も昨年亡くなられました。
健康の秘訣は日々の鍛錬
小林先生の勧めで朝の散歩を始めました。凝り性の私は体調の良くない日を除いて、雨の日も風の日も春夏秋冬歩き続けました。3年前の夏、悪性のノロウイルスにかかり、3週間ほど入院し、そのあと、30年以上続けた屋外散歩をあきらめ、屋内歩行に切り替えました。
現在、起床は6時頃。血圧、体重、体温を測定して冷水1杯を飲み、朝の体操を始めます。まず、足首の屈伸、両足の上げ下げ、腰の屈伸運動をして深呼吸です。私はガス腹なので腹のマッサージを12〜13分ほどしておなかのガスを抜きます。これを夕食前と就寝前と合せて1日に3回行います。
屋内歩行は1回10〜13分、食前2回、食後1回行います。その前後には必ず手首で血圧を測ります。1回目の歩行が終わった休憩中、前日のことを思い出し、それを前日の日記に書き込みます。頭の体操です。
朝はいつも10品以上のお菜があり、1時間ほどゆっくり噛んで食べています。その後1時間くらい新聞を読んでから食後の歩行をすると、ほとんど毎日便通があります。その後、1時間前後の仮眠をします。最近はこの日程がだんだんと大変になってきましたが、現在の国立病院機構高崎総合医療センターの渡邉主治医の激励もあり、できるだけ頑張ろうと思っています。
私は、平成17年に前橋店を閉鎖して引退し、高崎店を娘に任せました。昨年の秋、私は仕事のことを中心に、妻のこと、病気のことなどを回顧した『わが道を行く』を出版しました(日本図書刊行会/定価1296円)。波乱万丈のわが人生でした。
(高崎市)