【風に詠う⑱】吉良先生とテニス

外科医 住永佳久(さいたま市・共済病院顧問)

もう30年近くにわたって継続開催されている忘年会がある。恩師(吉良枝郎先生:自治医科大学名誉教授・順天堂大学名誉教授)を囲む会だ。 「吉良会」を愛称としている。恩師は自治医科大学呼吸器内科の初代教授として診療・研究は云うに及ばず教育(学生・医局員に対する)には特に力を注いでおられると感じていた。学生時代(5年生時)にBST(後のBSL : bed side teaching⇒learning)で呼吸器内科を選択したことを契機として、その後も幾度となくその謦咳(けいがい)に接してきた。そして、消化器外科を生業としてきた小生であるが、以来ずっと弟子仲間の末席に加えていただいている。にも拘わらず小生の忘年会への出席(参加)率はそれほど良くなくかろうじて5割程度だが、10年ほど前に忘年会幹事の大任を仰せつかったこともあり、総合点ではなんとか及第の“可"はいただける(?)のではと一人合点している次第である。

さて、平成28年の忘年会(12月23日)でのことであった。小生にとってビックリするような出会いがあり、ずいぶん昔の出来事がまさしく「恩讐(おんしゅう)の彼方に」と相成った邂逅(かいこう)を得た。それは昭和59年4月から卒後後期研修医として大学に戻った時のことだから33年も前の“昭和の時代の出来事"である。それまでは田舎の診療所や常勤医師二人の国保町立病院で外科系総合医として働きながらいろいろと研鑽を積んでいたのだが、どうしても一人前の外科医になりたいという夢を捨て切れず、所属していた徳島大学第2外科医局と徳島県庁医務課に願い出て、かつ多少の無理に融通を利かせていただいて2年間を限度として自治医科大学消化器・一般外科医局に帰った。医師として7年目ではあったが先進医療の経験や大学病院での臨床経験に乏しく、元来気の弱い(?)小生にとっては、わくわくというよりドキドキ・ビクビクといった心境での後期研修のスタートだった。

事はその年の5月連休明けのある日に発生したと記憶している。受け持った患者さんが呼吸器疾患(さすがに詳細は忘れてしまった)を併発したため、オーベン(上級医:懐かしい専門用語で今ならチーフか)に相談したところ、「呼吸器内科へ共診依頼をするように」という指示があった。こんなとき、それまでの徳島で積んだ経験からすると他科の先生をつかまえて「先生、これはどうなんでしょうか?」的な相談で済んだのだったが、母校の呼吸器内科はそうは問屋が卸さなかった。そのときの吸器内科の「他科からの共診依頼あるいは相談窓口」は、卒後5年目のバリバリの迫力ある女医さん(仮に名前を岡田先生としておく)だった。シャーカステン(レントゲン写真掲示用発光パネル、最近は見なくなってしまった)に、相談内容にふさわしく、かつ的確な胸部レントゲンフィルムが順序良く並べて掲示できていなかったことに対して、彼女は迫力ある発声で「診療相談依頼をしておきながら、その準備が満足に出来ていないとは呼吸器内科に対して失礼だ」と、その場で小生に「ちゃんと並び直してから、再度連絡してきなさい!」といい放った。つまり小生の不精な所作がすごいご立腹に至らせてしまったのだ。これに対してこの時の小生が何といい返したかは今では定かでない(どうも都合の悪いことは記憶から消えやすいようだ…忘れたふりをしていたい?)。ただ、小生のそのちゃちなプライドが大いに傷ついたことは確かだ(これは忘れていない)。その対決の後、迫力ある女医さんは「いじめられた」との報告(泣き言ではなかったと思うが…)を彼女のオーベン(どうも鬼軍曹とあだ名
されていた石原先生?)に伝え、やがてそれが恐れ多くも吉良先生の耳に入ってしまったのだ。

吉良先生は「私がちゃんと敵を取ってあげる」と彼女におっしゃったそうだ(忠臣蔵の話ではない!)。エレガントで優しく男気があってチョッとお茶目なところもある吉良先生は、消化器外科医局に所属する研修医の小生(とはいえ教え子の一人)を呼吸器内科教授室に呼び出した。「どうやら君はうちの可愛いレジデントをいじめたらしいが、本当かい? ところで君はテニスができるかね? ならば私がテニスで君をコテンパンにやっつけて成敗しよう!」ということになってしまったのだ。すわ!一大事である。

吉良先生はテニスを趣味とされていた。BSTに回ってきたテニス部学生を相手に、大学構内のコートでプレイされていたことを思い出した。腕は相当のものとの噂が高かった。
一方の私は、少年時代から始めてレベルの高い(?)四国徳島の高校硬式野球までずっと野球一筋で、しかもサウスポーでありピッチャーしかやったことがなかった。大学では体育学部ラグビー学科卒業だった。社会人となって田舎の病院勤務のときにテニスを始めた。病院のすぐ裏には今となっては贅沢(ぜいたく)なクレーのテニスコートがあり、ほかに遊びがないので毎日のように日没までの2時間はテニスに没頭していた。サウスポーから繰り出すスピンサーブが得意だった。吉良先生との対戦に至るまでの4年間に田舎テニスでラケットを5本も潰すほど青春をかけていた。生意気にも「社会人になってからテニスを始めた人には負けたことがない」といい切るほどの小天狗にもなってしまっていた。このことを吉良先生に伏せていたのは卑怯だっただろうか?

54歳と31歳の対戦だった。23の年齢差は大きく影響したかもしれない。今より15㎏も重くいかにも肥満体の小生は、動きが鈍いだろうと油断させたのかもしれない。対戦の実況を再現するには、小生の筆力では無理がある。中途半端なロブを上げてネットに迫った小生に対しての「吉良先生の鋭いボディスマッシュ」をバックハンドで軽く受けてネット際に落としたり(今でいうと錦織のドロップショットか)…などなど、ついには和やかなうちに吉良先生の成敗を受け流し、総括するとこのときのテニスは楽しく有意義なひと時だったと記憶に残っている。

さてもう一度、平成28年の忘年会(12月23日)の場面にかえろう。参加者は25名ほどであったと思う。席順は会場でのくじ引きだった。左隣は偶然にも大学同級の辻君だったので、取り敢えずは心細くなくほっとして着席した。右隣は「吉良会には初めて参加した」という声が聞こえてきた女性であった。辻君との暫しの歓談の後に、右隣に(恐る恐るではなく、この時は自然体で)話しかけた。「初めまして。私は外科医ですが何故か参加させてもらっている何某です。」顔を見合わせたこの時点で、何処かで会ったことがあるような気もしていた(初対面の女性に対していつもそのような気がする訳ではない!)。「失礼ですがお名前は?」。「初めまして。岡田と申します」ここで思わず小生は「もしやあのときの?」と少し大きな声(震え声ではなかったと思うのだが…)を出してしまった。その瞬間目の前の女性が吉良先生の可愛いレジデントであったことに気が付いてしまったのだ。彼女も小生の驚いた(怯えた?)表情を見て思い出したのだろう。「何某先生って、あのときの・・」と、やはり遠い昭和の出来事を瞬時に思い浮かべたようだった。

幸いなことに彼女もあのときの丁々発止のやり取りがあったことはよく覚えているらしかったが、小生からの言葉の圧力(暴力では決してない)の具体的内容は記憶から消えている様で安心した(そのように振舞ったのは大人の配慮というものかも知れない?!)。『不思議とあのとき以来、一度もお目にかかりませんでしたね。呼吸器内科医局付近を避けていらっしゃったのですか?』そして、「きっちりと吉良先生のお仕置きを受けたのでしょう?」と笑顔になった。それに対して「実はテニスの後で吉良先生からは『こんな屈辱的なテニスはしたことがない』と笑顔で感想をいただきました」と小声ながらも伝えてしまった。その後の会話は和気あいあいとした雰囲気で思い出話に移り、この再会が多少とも残っていた心の澱を消し去ってくれたことに、お互いが同意した(この再会がなければ怨念(?)を墓場まで持っていくことになってしまっただろう!)。まさしく「恩讐の彼方に」と相成った邂逅だったという本当にあった話である。

年の瀬に 交わす笑顔と感謝の言葉 我が師の教え 深きを悟る

後日談:以前に同じ病院で同僚として勤務していた、石原照夫先生(鬼軍曹と同一人物かどうかは秘密)という敬愛する兄貴分の呼吸器内科医がいる。ずいぶんと仲良くしていただいている飲み友達でもある。年末不都合にて「吉良会」を欠席されていたので、上記を「平成28年吉良会‐逸話」としてメールに添付して読んでいただいた。すぐに下記の感想をメールでいただいた。
「どうもありがとうございました。笑みを浮かべて読ませていただきました。岡田先生、どうなっているだろう、優秀な医師でしたが、結婚されてまもなく第一線を退いてしまいました。」 「当時の、呼吸器内科の状況を彷彿とさせるエピソードでしょうね。『すべてに全力投球を!』がスローガンでしたからね。手抜きには軽蔑するのが当たり前といった感じでした。」  おお こわっ!