食道癌を克服、兄は同じ癌で他界

今あるのはテニスと福の神のお陰

全日本大会直前に暗雲

食道癌を克服、兄は同じ癌で他界

私は65歳まで、昇降機の仕事にたずさわっていた。今はテニスの試合に出たり、地域でパソコン指導をする悠々自適の毎日を過ごしている。70歳になった平成17年、初めてテニスの全日本ベテランテニス選手権に出場できた。翌年はさらに良い結果を残せるようにとパートナーと誓い合ったが、この目標は食道癌で一瞬にして雲散霧消することになった。

毎年行われる健康診断の胃X線検査で、喉にバリウムが少し残っている写真があるといわれ、胃カメラによる検査を勧められた。平成6年に食道癌で他界した兄のことが頭に浮かび不安を感じたが、内視鏡検査を予約して帰宅した。

平成18年4月20日に受けた内視鏡検査の結果を聞くため、27日に病院に出向いた。かすかに抱いていた望みは打ち砕かれ、医師から食道に悪性の腫瘍があるので、専門の病院で治療を受けなさいとのご宣託であった。

国立がんセンター中央病院(当時)で治療することにしたが、すぐに入院できるわけでない。5月2日から22日まで数回の検査が行われ、粘膜固有層または粘膜下層に浸潤する腫瘍で、所属リンパ節に転移があるステージⅡbであった。治療は、化学、放射線療法、放射線と化学療法の同時併用、手術、ほかにこの3つの組み合わせがあり、選択を迫られたが、兄が手術できずに他界したことがあるので即刻手術を希望した。すぐに入院の連絡があるものと思っていたが、6月5日にPET検査を受けるようにと連絡があり、どうして今頃なのか? 前の検査のときにやってくれればいいのにと不満を持ちながら検査を受けた。

6月8日入院の指示がきた。4月の健康診断から2ヵ月になるが、不安を感じつつも自覚症状はないので、東京オープンベテランテニス大会に出場したり、練習会には顔を出し、汗を流して気を紛らわすことができた。

入院から退院まで

6月12日の手術の前日に執刀医、麻酔医とインフォームドコンセント(説明と同意)が行われた。腹部をへそから上へ、また、右肩甲骨の下側と喉部を切開し、肋骨を2本切り、肺を押しつぶして…。さらにいろいろなリスクについて詳細に説明をされたが、覚悟はできていたので不安を感じることはなかった。

手術室に入ると麻酔が行われ、意識がなくなった。目が覚めたとき、目の前に妻と誰かがいた。語りかけられて、自分では声を出したつもりだが、か弱いうなり声しか聞こえなかったそうだ。苦しさも痛さも全く感じず、また、すぐに眠ってしまった。あとから聞いたのだが手術は予定通り進み、出血も300㏄以下で輸血はなく、7時間で終了したという。
6月15日朝、内視鏡による喉部の検査結果は良好であった。看護師さんに回復を早めるために立ちましょうといわれ、体には点滴、排尿、体液の排出、麻酔などの管、鼻から腹部への管、酸素吸入の管、心電図や血液中の酸素量を測る機械をつけていて、まるでロボットのようだった。

この状態で5mほど歩いたが息が切れた。手術時に肺を押しつぶしているので、肺炎を防止するための深呼吸をするとともに咳をして痰を出すようにいわれた。しかし、咳をすると腹部の傷に響き、咳の強さを試行錯誤しながら何回も繰り返した。
このあとの療養を簡単に記してみると・6月17日には、20m歩けた。そして頸部と鼻の管が外された。翌日、硬膜外カテーテル及び胸部の管、排尿の管を抜いたので、その夜から自力でトイレへ行けることになった。

  • 同18日、看護師が付き添わずに8階の廊下(60m)を一回りできた。
  • 同19日朝、水を飲む練習をした。問題なし。夕方、胃透視バリウム検査でも結果OKで、お茶、ジュースを飲んでも良いことに。体液を排出する管も外され点滴のみになった。
  • 同20日、点滴も外され、昼食の流動食を腹の中へ流し込んだ。ゆっくりとを心掛けたが1時間半後に下痢に。ダンピング症なのだろうか。
  • 同21日、五分粥がゆ食が始まる。順調に回復している感じはしているが、背中右側の痛みはなくならない。
  • 同22日、すべて抜糸をした。また一つ身軽になった感じがする。
  • 同23日、風呂に入り、本当にすっきりした。しかし、下痢と背中右側の痛みは相変わらず続いていた。
  • 同28日に待望の退院ができた。

地域でパソコン指導のボランティア

自宅でのリハビリは、立っても座っても寝ていても長くは続かない。体中の筋肉が弱っているのだろう。また、テレビも読書もすぐに飽きてしまう。

体を切り刻むとこんなにも体力が減退するものなのか。屋外で散歩することは心配なので、家の中で階段の上がり降りを続けた。今日は何回できたといいながら、その数が増加する右上がりの図を見ながら気力を維持するようにした。

毎年行われている公民館主催のパソコン講座が7月末に開催され、いつものようにアシスタントとして参加するよう声を掛けられたので、5日間のうち2日間だけ顔を出したが、声がかすれ、しゃべるのが苦しかった。8月中旬に2回目が開催されたときは、5日間出席でき、声も前よりは楽に出せるようになった。8月17日の2回目の診察結果では問題なし。水泳もテニスもOKとのことであった。早速トレーニングセンターで筋トレをやってみたが、ウエート負荷は前より2ランク低くなっていた。また、ジョギングも脈拍が140になると苦しくて続けられず、ペースを落として行った。

9月6日テニスコートに出向いた。人を相手にはできないのでマシンを相手にやってみたが、15分くらいで腕が痛くなり続けられなかった。一日おいてまた出かける。前よりは少し良い。週に5日ほど通った。1週間単位でみれば着実に回復しているのが感じられた。

年が明け、1月中旬に茨城県シニアテニス連盟の会長になるよう要請され、今までいろいろとお世話になった恩返しの意味を込めて引き受けることにした。

夢はベテラン大会出場と東京五輪見物

6月12日、手術後1年が経過した。

この日はテニスの練習会があったが、パソコン講座の相談日なので、テニスは断念。この1年はテニスをしたり、パソコン講座のお世話をしたり、元気に生活している自分を見ると本当に幸せな人間だと思う。茨城県シニアテニス連盟のホームページを作ったり、大会の組み合わせプログラムをエクセルのマクロで効率よく作れるようにしたり、充実した日々を送ることができた。

これも、食事の面で私のQOL(生活の質)を支えてくれた妻のお陰と感謝している。たまに麺類の食べ方が早過ぎて苦しんだことはあったが、お医者様のお世話になるようなことはなく、昨年は金婚式の思い出作りにアメリカ西部国立公園巡りのツアーに参加した。

食道癌にかかった原因ははっきりはしないが、若い頃からお酒に弱いにもかかわらず、暴飲していたからだと反省している。妻にも前からお酒をやめなさいといわれていたので頭が上がらない。手術をしてからは、お酒も飲めなくなったせいか、血圧、コレステロール、HbA1cなどが下がり、体調に関する心配がなくなった。癌を早期発見してくれた先生、神の手で手術をしていただいた先生に心から感謝している。

今後は、全日本ベテランテニス選手権80歳の部に出場すること、東京オリンピックの開会式を生で見ることを目標に生きていくつもりである。