多くの友人に囲まれ、笑って生きる

連れと「バリウム飲み」の後で

術後、四国八十八札所巡りを4回

私は現在、明治28年創業の文房具屋を胃癌退職した隠居の身であります。アルファ・クラブとお付き合いさせていただいて12年。執刀医の澤田俊彦・熊本消化器外科村本病院長先生(当時)からの紹介が縁でした。会報のあまりに安い年会費に感謝の意を込め、地元日刊紙に紹介しました。その一部をアンケート調査の回答と一緒に事務局へ送ったところ、「体験記」を寄稿する羽目になりました。

平成12年2月11日に同級生と健康診断を受け、私がバリウム検査を断り、先に帰ろうとすると連れは「人を誘っていながら先に帰るとは付き合いが悪かねえ」といいます。私は「酒飲みの付き合いなら善し悪しをいうだろうが、バリウム飲みにそれはなかろう」と大笑い。付き合いましたら4㎝大の胃癌発見。後輩の院長から即、前述の病院を紹介されました。

翌日の病院行を控え、車の運転をしていましたらスピード違反で捕まりました。取締りの警官に哀れを装って癌のことを話しましたが、同情はされるも罰金の減額はありません。予定の「最後の晩餐」は中止となりました。

17日に入院し、胃は噴門部から4分の3、それに脾臓とリンパ節も切除。小腸で胃もどきを造り、残胃と繋げてもらいました。生存率60%、2年間の抗癌剤服用となりました。術後は歩くようにいわれましたが、生まれつきの無精者、その手抜きが仇となり後に逆流性誤嚥に悩まされるとは。2ヵ月後に退院しましたが、それからが大変でした。退院3日後に熊本県立劇場で、姪の轟悠が出演する宝塚公演があり、姪の踊りではなく人混みに酔いました。次は100名を超すお見舞い返し。8月には親族、友人が祈願してくれた大阪の石切神社と奈良の薬師寺へのお礼参りと忙しい日々でした。

来賓の挨拶「えーこの度は」

10 月には県立人吉高校の同窓会会長に推薦され、総会当日、山口県の川棚温泉に逃げました。が、帰宅すると欠席裁判で就任が決まっていました。
入学式、卒業式など分校や定時制を含め学校行事には演壇での挨拶を、同窓会では関東、中京、関西、そして、福岡、長崎、熊本、鹿児島の支部年次総会に出席せねばなりません。本校の創立80周年記念行事や分校創立30周年も重なり過酷の日々でした。同窓会本部総会の就任挨拶では紋切り型では聞いてもらえないと思い、請け売りの胃癌の話をしました。

「私は半年前に胃癌の手術をして退院したばかりであります。生きていれば任期を務めさせていただきますのでよろしくお願い申し上げます。さて、癌の治療薬は38種類あるそうですが、これといった特効薬はなかったそうであります。しかし、ある人がこれぞ癌に効くというのを発見します。それは、夕方になると帰ってくる雁です。待ち伏せて網で捕らえ、癌を患っている人の枕元に置いてやるとその人は雁(癌)に聞く(効く)のです。聞かれた雁は『がん..張りなさい』といって励ますのだそうです」。帰りに私の前を歩いていた2人の女性が「今から雁を捕まえに行こうか」と話していました。身近に癌を患っている方がおられるのかと思いました。

来賓としておもしろい話をとの要請がありました。上気して挨拶ができなくなった振りをして「えーこの度は」を繰り返していますと座が白けてきました。そのタイミングを計って下を向き「えーこの足袋は十文三分でございまして」と話し始めましたが反応がありません。そこで意味を説明し、「こんな訳でここで笑ってもらえないとつらいのであります」というと爆笑となりましたが、こちらは白けます。こんな馬鹿話をしながら同窓会の4年間を、逆流性食道炎の苦と共に務め終えました。余談ですが、逆流の予防にはカラオケが妙薬と知り、『矢切りの渡し』を『胃切りの私』と歌ったりして度が過ぎ、喉のポリープ手術で1週間入院しました。

やめられない札所巡り

退 院後2年足らずの間に、私を見舞ってくれた弟を含め11名の友人が亡くなりました。あまりのことに、自分の身代わりになってくれたのだろうかと沈み、虚むなしくて四国巡礼を思いつきます。宗派は違っても良いと聞き、九州を横断し、臼杵港からフェリーで四国の八幡浜へ渡る自家用車での巡礼です。旅行社に宿を頼みますと、四十三番札所からなら逆方向に回る逆打ちですねと勝手なことをいいます。

最初の宿が宇和島で、2日目は足摺岬。お寺さんには午後5時までに行きませんと納経帳への朱印がもらえません。カーナビもなく宿探しに苦労しました。
14年5月9日に出発し、17日に帰宅、2000㎞の旅でした。終わったら高野山へもお礼参りをせねばならぬと聞かされ、6月に行きましたが、つらくてもう行くまいと思いました。

時がたつと不思議なもので、17年2月27日から2度目の四国巡礼へ。今度は順打ちでしたが、剣山系の山越えで積雪に遭い、後戻りもできません。燃料切れの凍死を思いながら暗闇の峠へ到達。精魂尽き果てて3月7日に帰宅。そして、6月にまた高野山へ。金輪際やめたと思うのですが、滑落を覚悟したあの雪山越えをどうしても確認したく、翌18年10月、3度目の巡礼に。この折には逆打ちで再度難儀した道をたどりました。このときは、カーナビ付きでしたが、十二番札所焼山寺から十一番藤井寺への道は矢印だけで役立ちません。後で焼山寺で聞きますと、あそこを通った巡礼者は聞いたことがないといわれました。迂回をすればバスが通る道もあるのに、なぜあんな所に…。出合う車も皆無で、谷間の美郷村は有名な政治家の出身地と聞きました。4度目の巡礼は19年8月。顧みますと術後6年間で4度の四国八十八か所一気巡りでした。

自慢話は小声で

後の12年間を振り返りますと、左手指2本の手術、左瞼筋の手術、右手首の骨折、右足の小指付け根の骨折、喉のポリープ手術、誤嚥性肺炎で各1ヵ月の入院。
それでも文句もいわず耐えてくれる我が身を褒めています。

これらが自慢話に聞こえたのか、同級生が遠回しに病気のことは忘れろといいます。そのとき母親から「自慢話は死ぬときにしなさい」といわれたことを思い出しました。もう少し長生きしたいので、この自慢話は永久に眠っています母親には聞こえぬよう小声でさせていただきます。ただし、良寛和尚の「死ぬときは死ねばいい」の心境で。