娘の思いが「負のスパイラル」を反転させてくれた

冷静に告知を受け入れた

私は、比較的、スムーズに癌体験をくぐり抜けることができたと思っています。しかし、退院後に待っていた栄養障害との闘いこそが、私にとっての熾し烈れつな癌体験だったのかもしれません。

は、どちらかといえば胃腸が丈夫なほうではありませんでした。幼少の頃から、よく下痢を繰り返していました。それでも、会社の健康診断では悪いところは見つからず、長年の間、健康に恵まれていたといえます。

そんな中、初めて胃潰瘍になったのが45歳のとき。そして、53歳で再び胃潰瘍を患いました。2回とも自覚症状は皆無で、治療薬によって完治したのでした。3度目の胃潰瘍は自覚症状がありました。平成21年4月、胃に鈍痛を覚えた私は、近所のクリニックを受診。その結果、2カ所に胃潰瘍が見つかりました。このうちの1カ所は、過去の2回と同様に治療薬で治りました。しかし、もう1カ所がなかなか治りません。そこで細胞診を受けると、早期の胃癌であることが判明したのです。

瀕死の栄養失調からの生還

それでも、切除してしまえばいいのだろう…、と深刻には考えていませんでした。そのまま、自宅に近い大学病院を紹介され、同年6月に精密検査を受けました。私の場合は「噴門部に癌ができているため、胃を全摘しなければならないでしょう」という診断を受けました。医者がいうことなら仕方ないと、私は俎板まないたの鯉のような心境でした。

7月10日、その大学病院に入院し、同月14日に手術を受けました。3週間後に退院するまでの間も、それ以後も抗癌剤を服用することはなく、自宅で療養し、職場へ復帰することだけを考えていたのです。

過度の栄養失調で緊急搬送

院生活を終えて、自宅療養に移行した私は、以降、体重の減少に悩まされるようになります。術前の体重は約58㎏。重いと感じたことはなく、軽過ぎることもない、私にとってのベスト体重でした。

職場には、退院から約50日後の10月上旬から復帰しました。大学院を修了して35年間にわたり勤務していた金属関係の会社を定年退職していた私は、それまでの経験を生かして千葉県内の会社に再就職していました。通勤には、自動車で片道1時間半を費やしました。もともと、運転は嫌いでなかったのですが、業務に加えて往復3時間もハンドルを握ることで、疲労困憊こんぱいの毎日を送ることになっていました。職場への復帰時には、元の体力には程遠いことも自覚していました。それでも、これほどまでの疲労感に襲われてしまったのは、食べ物があまりのどを通らなくなっていたことが大きな要因だったのです。

術後からそれまでの間、ダンピング症候群らしい症状はほとんどなく、強いていえば食後に腸が張ることと、軽い下痢になることくらいでした。腸の張りはガスが出てしまえば治まりましたし、下痢はもともと、持ち合わせていた体質でしたので、この2つはそれほど悩む症状ではありませんでした。しかし、徐々に食欲が減退し、体力維持に必要不可欠な栄養を摂取できない体になっていたのです。

体重が著しく減少し始めたのは平成21年11月、退院して3カ月たった頃でした。その後、平成22年3月までの4カ月間で体重は10㎏以上も減少し、44㎏まで落ちてしまいました。もう私の体力は限界に達していました。我慢に我慢を重ね、仕事に一区切りがついた同年4月、会社を退職。そして、しばらくの間、家で養生に努めることにしました。

家では体力を回復させるどころか、その間、体力は日に日に落ち、足のむくみもひどくなっていました。定期診察は最初のクリニックに戻り、診察を受けたところ、担当の医師から「たん白質がたりない。家庭では補うのが難しい」といわれ、再び大学病院に入院しました。

病院では、なんとか回復の兆しが見えるようになった13日目で退院しました。ところが、自宅で次の検査日を待つ間に、私の体力は悪化の一途をたどり、ついにはべッドに寝たきりで、自力ではトイレにも行けない状態になってしまいました。あまりの急激な変化に、もうどうにでもなれ、と、食欲も生きる気力も失い、「負のスパイラル(連鎖)」に陥ってしまいました。平成22年6月、私はついに意識不明になり、救急車で運ばれる事態になったのです。

もう一度、生きてみたい

び運ばれた大学病院で意識を回復した私は、栄養剤の点滴を受けて体力の回復を図りました。「しかし」というか、「やはり」というべきか、体調の回復の兆しは一向に見られません。

私が救急車で運ばれるまでの一部始終を知っていた娘の美恵は、このままでは私の体力がますます低下してしまうと心配してくれました。というのも、娘は看護師をしていたので、医療の知識には長たけていたのです。

彼女は生活の拠点を置いていたフランスから一時帰国し、私の看病に専念してくれました。と同時に、セカンド・オピニオンを求めて、アルファ・クラブを介して青木照明先生を紹介していただきました。それほど日を空けず、娘は青木先生に会いに行きました。

私の症状を聞いた先生は「今の状態を鑑かんがみれば、腸に管を入れて栄養を注入する腸瘻をつくることがベストである」とアドバイスしてくださいました。そして、その技術を持っている国際医療福祉大学病院の鈴木裕先生を紹介してくださいました。

私は妻と娘とともに、栃木県那須塩原市にある同病院に行き、鈴木先生の診察を受けることになったのです。それが8月下旬のことでした。鈴木先生は、極度の栄養失調に陥っている私の病状を把握し、腸瘻設置手術の準備を進めてくれました。そのまま私は入院し、翌々日に手術に臨んだのです。

腸瘻から栄養を摂取できるようになると、私の病状は少しずつ改善し、入院時は立ち上がることさえままならなかったのに、院内で歩行訓練を行えるまでになりました。そうなると、生きることに投げやりになっていた気持ちは霧散し、もう一度、生きてみたい…、というポジティブな気持ちが芽生えてきました。10月上旬に退院してから、自宅では食べたいものを口にするようにしました。加えて、就寝前に経腸栄養剤「ツインライン」を注入しました。また、鈴木先生のアドバイスを守って、週に3回、フィットネスクラブに通い、筋肉の増強と増量に努めました。これらの結果、一時期、38㎏まで落ち込んだ体重が、49㎏まで回復してきたのです。

必死に父親を助けようとしてくれた娘の想い、アルファ・クラブとの出会い、青木先生の適切なアドバイス、鈴木先生の迅速な処置などが私をこうして生かしてくれているのだと感謝して毎日を過ごしています。